戻ってきた瑠駆真へは視線も投げず、ただ黙々と予習を進める。瑠駆真が席を立つ前まで広げていた英語はすでに脇へ寄せ、目の前にあるのは世界史。
「英語…… やめちゃったの?」
「終わりました」
冷たく答える美鶴に小さく息を吐き、己のノートに視線を落す。
「少しだけ、教えてもらってもいいかな?」
「わからないんだったら、今の子についていけば良かったじゃない」
まるで責めるような言い草。
その少女が現れたのは、瑠駆真が美鶴のノートを指差しながら、英語の質問をしていた時だった。
「そんな無愛想な方よりも、こちらの方がよほどわかりやすくってよ」
開け放った扉にかける指には、小さな赤い石。きっちりと描き整えた眉をピクリと動かして、二人を見下ろす。
「山脇くん、あんまりですわ。お約束していたのをすっぽかすなんて」
「約束?」
本当にわからないといった表情の瑠駆真に、唐渓の制服を纏った少女は少し口を尖らせる。
「お昼休みに申しましたでしょう? 私の家庭教師に会ってみては? とね」
「あぁ」
ようやく思い出した瑠駆真に、少女は瞳を大きく見開く。少し上目遣いで愛らしさを強調しながら、一歩 また一歩と建物の中へ入ってくる。
すかさず美鶴が口を開く。
「入ってくるな」
「あなたの指示は受けませんわ」
「ここは私が管理を任されています」
「あなたの持ち物では、ありませんのでしょう?」
瑠駆真へ向けた視線とは正反対。美鶴は憮然と瑠駆真を睨む。
その視線を受けて、瑠駆真はゆっくりと立ち上がった。そうして、少女の肩に手を沿え、入り口へと促す。
「あのような礼儀もわきまえない方に気を使う必要が、どこにありますのっ」
忌憚ない言葉を並べながらも、瑠駆真に背を押され、建物の外へと追い出される。
「少し暑いかも」
そう告げて扉を閉める瑠駆真。鳩尾あたりで、校章を配ったタイピンがキラリと光る。
さり気なく仄かにも品の良い輝き。目を奪われたのは、衣替えで上着を着なくなり、目立ちやすくなった為だろう。
ちなみに聡などは、机などにぶつかってカチカチ音を立てるのが耳障りだと、シャツの胸ポケットに適当に挟んでいる。
それから数十分。瑠駆真の説得に、ようやく少女は退散する。
去り際になにか叫んだようだが、美鶴にはよく聞き取れなかった。きっと、美鶴に向かって悪態の一つでも吐いたのだろう。
「すごいよね」
腰を降ろしながらまず一言。
「全教科にそれぞれ専門の家庭教つけてるんだって」
「よくできた家庭教師なんでしょう? 私なんかより、よっぽどアンタの為になるんじゃない?」
嫌味を込めた美鶴の言葉に、だが瑠駆真は優しく笑う。
「君に教えてもらったほうが、きっと捗ると思うよ」
「そうかしら?」
ふんっと鼻を鳴らす。
「そうさ」
瑠駆真は、ゆっくりとした動作で手元のノートと教科書を脇へ避けると、両肘を机について乗り出した。
「勉強って、相性も大事だと思うんだ」
「相性?」
「そう。どんなに出来た教師に教えてもらっても、性分が合わなければ身につかないんだ。逆に………」
再び開け放した入り口から、やや湿った風が吹き込む。しばらく閉めていたことで蒸していた室内を、爽やかな風が飛びまわる。
「好きな人に教えてもらうと、どんなことでも身につくんだよね」
「単純ね」
「僕は単純だよ」
組んだ手に顎を乗せ、美鶴の顔を覗き込む。慌てて身を引く相手に、瑠駆真は目を閉じて笑った。
「英語は嫌いだけど、君に教えてもらえるなら楽しく覚えられる。夏休み前の試験では、ちょっとは君に近づけるかな?」
「何が?」
「順位」
そう言って、乗り出した身を引っ込める。
「でもやっぱり、苦手かな」
呟きながら、避けた教科書をペラペラとめくる。
「僕の母さんは、英語の先生だったんだ」
独り言つ。
「先生と言っても、学校の先生というワケじゃない。自宅で、小・中学生向けの英語塾を開いてたんだ」
その瞳は少し懐かしむような、だが大して嬉しそうでも楽しそうでもない。むしろ、少し嫌なモノを思い出した時のような、苦いモノを噛んだかのような表情。
「母さんは、僕にも英語を教えてくれたけど、僕は英語の勉強が嫌いだった」
じっとりと湿った空気が纏わりつく。
「きっと、母さんが嫌いだったんだな」
涼風は一時のモノでしかなく、辺りには梅雨独特の、重くどんよりとした空気が滞る。
だがそれは、決して梅雨という季節のせいだけではない。
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